ヒトラー~最期の12日間~(2004ドイツ)★★★★★
この映画「ヒトラー~最期の12日間~」はウソ字幕動画シリーズで非常に有名なシーンを含んでいる。
その日本語吹替版がYoutubeであったので紹介(削除されるかも?)
日本語吹き替え版ヒトラー役は大塚周夫(大塚昭夫の父)
オリジナルのブルーノ・ガンツほどの狂気はないが名演である。
この通称『総統閣下シリーズ』で使われるシーンは、1945年4月22日の作戦会議を再現したもの。
シュタイナー軍集団に戦力がないと知らされたヒトラーは激昂。
ベルリン陥落の絶望的な状況はドイツ陸軍の不甲斐なさが招いたと声高に批難し、自分は一人で欧州を統一したと豪語し、戦争の敗北と自身の自殺を告げる。
ヒトラーが実際に自殺をしたのは4月30日のこと。
その一週間あまり、首都ベルリンでは、市民を犠牲にする絶望的な防衛戦が行われていた。
このベルリン防衛戦での民間人の死者は15万人を超えるという。
ヒトラーは軍事教育を学んでいないにも関わらず、前線で指揮を取ろうとしていた。
その結果、ソ連(現ロシア等)戦でのスターリングラード攻防戦とその敗北をもたらした。
そもそも、戦略的にスターリングラードは陥落させるべき地ではなく、当初の目的ではなかった。
なし崩し的に、その地名が目に入ったヒトラーが、スターリンの権威を落とすべく攻防戦に入ったという素人ならではの戦略である。
そして、この大敗がドイツ敗北を決定づけたと言っていい。
それでも、前線に口を挟むヒトラーにドイツ軍は耐えきれなくなり、暗殺事件を起こす。
その暗殺未遂に恐怖を覚えたヒトラーは、猜疑心の塊となり、自分を盲目的に崇拝する軍人以外を遠ざけるようになる。
大戦末期の1945年4月に、ヒトラーの避難しているベルリン地下壕の側近は、そんなヒトラーに従うためなら市民を犠牲にするのをいとわない連中ばかりとなっていることも留意されたい。
なお、ヒトラーの役職「フューラー」とは、独裁者のことではなく、もともと指導者を意味する。
日本語ではフューラーを「総統」と訳すが、原語の意味は、権威的なものではないのだ。
このあたりは、スターリンの「書記長」に似ている。
ソ連書記長は、もともと党の事務職トップにすぎず、政治に口出しできない役職であるからこそ、レーニンはスターリンを書記長に任命したのだが、スターリンはその書記長の権限を慎重に時には大胆に広げた結果、独裁者となったのだ。
二人の独裁者に至る道のりは大きく異なる。わかりやすくいえば、ヒトラーは弁舌で市井の支持を得て選挙に勝利した大衆扇動型独裁者であるのに対し、スターリンはソ連共産党という組織のなかで権限を拡大した官僚型独裁者である。
だからこそ、ヒトラーはスターリンを信用していなかったし、いっぽうのスターリンはヒトラーを好意的に見ていて、ドイツのソ連開戦への準備を怠っていたといえる。
ヒトラーはスターリンを警戒していたが、スターリンはヒトラーに油断していた。
話がそれた。
この映画では、ヒトラーがパーキンソン病におかされて、手の震えがとまらなくなった状態が描かれている。
実は、これはヒトラーにとっては大問題で、彼はベルリンで自殺することを選んだが、拳銃自殺でなければならないと考えた。
服毒自殺は自殺だが、拳銃自殺は戦死になる、という美学である。
この美学のために、ヒトラーは主治医を病院から呼び寄せる。
ベルリンの病院では、ヒトラーのたてた無謀な防衛戦により、患者が所狭しと集っている。
一人でも多くの市民を救わなければならないはずの軍医が、ヒトラーの美学のために病院から去ってしまうわけだ。
結局、ヒトラーは青酸カリのカプセルを噛んだあとで、拳銃を自分に発泡するという自殺を選ぶ。
その青酸カリの効用に疑問をいだいた彼は、自殺の前日に愛犬ブロンディで試す。
ブロンディはヒトラーを見つめながら息絶えたという。
そのブロンディを蹴るほど嫌っていたのだが、ヒトラーの愛人エヴァ・ブラウン。
彼女は4月15日に、みずからヒトラーのいる地下壕に飛び込む。
ヒトラーを一人で死なせたくない、自分も一緒に死ぬ、という覚悟にヒトラーは感動して、自殺の前日に結婚する。
だから、死んだときはエヴァ・ヒトラーである。
このエヴァ・ブラウンのもっとも印象的な場面は、義弟(妹の夫)ヘルマンの助命のシーン。
妹夫妻が生き残ることがエヴァの最後の望みであった。
しかし、猜疑心の塊となっているヒトラーはヘルマンがヒムラーの裏切りに加担したとかたくなに信じ、その処刑を命じる。
エヴァはその命令を覆すように嘆願するが、ヒトラーの意志が強いとわかると「はい、総統閣下」とうなだれる。
このエヴァの弱さ。実はこれこそが、彼女が長年にわたってヒトラーの愛人であった理由である。
もし、あそこで正論を言う女性であれば、ヒトラーは自分の側に近づけなかっただろう。
いっぽう、このエヴァは女性らしくパーティー好きで、地下壕でもそのような宴会が開かれたと、この映画では描かれているが、史実はそれほど大げさではなかったらしい。
(視聴者に印象を与える効果はあるので、それはこの映画の問題点とはならないと思う)
ただ、エヴァは喫煙家であった。
ヒトラーは禁煙禁酒・菜食主義の愛犬家であったので、その地下壕も禁煙であったのだが、死を待つばかりのプレッシャーを、多くの者はタバコで紛らわせた。
彼らがヒトラーが死んだと知って、最初にしたのはタバコに火をつけたことである。
ヒトラーがいなくなれば、堂々とタバコが吸えるからだ。
この映画はヒトラーが死んでからも物語は続く。
翌日に、宣伝相であったゲッベルスは、6人の子供と妻を道連れに自殺する。
映画では、ゲッベルスがきわめて弱い人間として描かれていることが印象的だ。
ゲッベルスは大衆扇動の専門家であり、ユダヤ人排斥のための宣伝を次々と仕掛けた。極悪人である。
ところが、地下壕でのゲッベルスは秘書に泣きつく情けない男である。
ヒトラーに後任の首相として講和にあたれと遺書で指示されたのに、それに従わず家族もろとも自殺を決意する。
その六人の子供を殺す(青酸カリ入りカプセルを口に含ませる)のは妻にやらせて、その妻に一言もかけないのも印象的だ。
なお、ヒトラーが最後の別れの挨拶をして、エヴァとともに部屋に入り、自殺の段取りをしている最中に、ゲッベルス妻はヒトラー部屋のドアを叩き、面会を申しこむ。
そして、今さらながらヒトラーに泣きつくのだ。さすがのヒトラーもこれには困惑していた。
そんな妻の失態を、ゲッベルスは諌めようともしない。
このゲッベルス夫妻と六人の子供は、理想の家庭としてドイツ国内では宣伝されていた。
しかし、実際はゲッベルスがプロパガンダ映画に出演した女優と不倫していたのが妻にバレて、離婚の危機になったりしていたらしい。
それでも、ヒトラー自殺の翌日、ゲッベルス妻は夫に銃で殺されることを選び、その後にゲッベルス夫も自殺する。
このヒトラー夫妻とゲッベルス家族8人の遺体はガソリンを撒かれ、念入りに燃やされた。
なお、そのガソリン確保のためにも、相当の死者が出たであろうことは想像にかたくない。
と、こうして、兵士の犬死の末に確保されたガソリンで焼かれた計10名の遺体だったが、ソ連軍には発見されたという。
国が滅びるときは、人々の命はあまりにも軽い。
そのゲッベルスと対比して好漢と描かれているのが、軍事大臣のシュペーアである。
彼は建築家であり、自称芸術家ヒトラーと親しかった。
ところが、シュペーアは敗北前のベルリンから去る。
そして、去る前に、ヒトラーが命令したインフラ破壊を行わなかったことを、ヒトラーに直接告げるのだ。
軍人は悪しざまに罵っていたヒトラーもシュペーアには何も言わなかった。
このシュペーアはニュルンベルク裁判で禁錮20年の刑に処せられる。
釈放後は回想録を書き、ベストセラー。1981年、イギリスの愛人宅で没する。享年76歳。
しかし、この映画の登場人物のほとんどは死ぬ。
絶望的な防衛戦の中、規律維持という理由で無闇に人が犠牲になる。
この映画の主要人物の一人である軍医シェンクを脅すためだけに、二人の民間人が一瞬で射殺される場面こそが、この映画でもっとも戦争の狂気を描いているところかもしれない。
戦争で死ぬときに、殺される敵を知ることができるというのは幻想で、それこそ漫画の世界である。
現代戦争では、殺される相手を知ることはできない。顔を知覚する余裕があったら、とっくに発砲している。
いっぽうで、規律維持という理由で、わけもなく市民が殺されるのも戦争の狂気である。
日本でも「非国民」というレッテルを貼られて、多くの人々が殺された。
僕はゲバラの「革命戦争回顧録」を読んで、そういう戦場のリアルを知った。僕はゲバラの勇ましい活躍を見たかったのだが、本に書かれていたのは軍律を破った味方をいかにして殺したかについてほとんど語られている。
ゲバラという人間の凄みは「本当に軍規の名のもとに殺して良かったのか」というケースを、しっかりと自分で書き記したところにある。
ともあれ、戦争状態では、敵に殺されるだけでなく、味方に殺されるケースが多い。
このあたりは、孫子のエピソードが有名だ。あるとき、王様が孫子に「宮中の婦人を指揮できるか?」と言った。孫子は婦人たちを集めて命令した。もちろん、婦人たちはケラケラ笑っていて従わない。そこで、孫子は隊長に任命した二人の寵姫を斬った。その死体を見て以降、婦人たちの動きは見違えるようになった、という話である。
ということで、戦場では味方の犠牲は必要悪とされる。軍規を厳しくしないと、軍隊は弱くなるからだ。時には理不尽に誰かが殺される。カート・ヴォネガットの小説であったが、ティーポットを盗んだ罪で、戦後のドイツで米国兵が射殺された。そもそも、戦争では多くの兵士が戦利品をあさっていたのに関わらず、すでにドイツは降伏しているのに、アメリカの一人の兵士がティーポットを盗んだ罪で殺されるのである。
それが戦争である。
と、この映画に関係のない話を長々としてしまったが、今作は史実に忠実に描こうとしたゆえに、戦争の狂気を描きだしているといえる。
エヴァの義弟が、処刑が免れないと知ったとき、胸のボタンを締めて、姿勢を正し、ハイル・ヒトラーと敬礼して射殺されたのも、人間とは何かを考えさせられる場面のひとつだ。
この映画では善人として描かれている、軍医シェンクや首都防衛司令官モンケには、Wikipediaによると、数々の悪事に加担した証拠があるらしい。
善人はすでに死んでいた、ということか。悪事に加担しないと狂ったヒトラーから責任ある立場を与えられなかった、ということか。
さて、今作の映画のヒトラーは56歳としては老いぼれていて、手は震えているし、かつての弁舌も陸軍を罵倒することにしか意味をなさない。
これを見て、なんでこんなヤツに人々は従ったのか、疑問を感じる人が多いだろう。
しかし、これは狂ったあとのヒトラーであって、もともとのヒトラーは内心は狂っていたとしても、選挙に勝ち、国民の圧倒的支持を受けるほどの魅力があったのだ。
そのあたりのヒトラーの魅力については次に紹介する「帰ってきたヒトラー」でうまく描かれていると思う。
なお、このヒトラーがいた地下壕は現在でも完全に破壊されていないらしい。さすがドイツ人の仕事である。
しかし、地下壕が破壊する前に、次々と中の人々は逃亡し、残った者たちは自殺した。
人が死に、地下壕だけが今も残っているのである。
戦争とは何かを考える興味深いエピソードだ。